卑弥呼の死や墓については魏志倭人伝の内容が極めて重要です。
卑弥呼の死
「以死」の解釈
魏志倭人伝の「卑彌呼以死」をどう解釈するかで、卑弥呼の死因や死亡時期の推定が変わります。
其八年
『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条
太守王頎到官
倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和
遣倭載斯烏越等詣郡説相攻擊状
遣塞曹掾史張政等因齎詔書黃幢拝假難升米為檄告諭之
卑彌呼以死大作冢径百余歩殉葬者百余人
- 以と言う字に特に意味はない説
-
以と言う字は、卑弥呼が死んで、のように単なる接続詞的な扱いという考え。
- 死を以って、と読む説
-
卑弥呼が死んだことで墓を作った、という意味。
- (魏志倭人伝の原文には句読点が無いので)卑彌呼以死は前の文にかかっている説(1)
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よって死す、と読む説。
狗奴国の男王卑弥弓呼との争いで死んだ、あるいは、難升米の告諭によって死んだという考え。 - (魏志倭人伝の原文には句読点が無いので)卑彌呼以死は前の文にかかっている説(2)
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既に死す、と読む説。
つまり、難升米が詔書・黄幢を受け取り檄で告諭したが、既に卑弥呼は死んでいた。
一般的に”その八年”のくだりは「告諭之」までで、次の「卑彌呼以死」は”その八年”のくだりとは別件と考えられています。
皆既日食に関連した説
卑弥呼が死亡したとされる頃に、日本では皆既日食が観測できました。
卑弥呼は”鬼道に仕えて民衆をよく惑わす”など巫女・シャーマンのような働きをしていたと考える説があります。
その卑弥呼が亡くなった直後に日食が起きたことで民衆が恐れた、あるいは、日食が起こったことで卑弥呼の巫女としての力が弱くなったとみなされて殺された(クーデターが起きた)とする説です。
しかし、247年の日食で皆既だったのは朝鮮半島から対馬まで、248年の日食で皆既だったのは能登半島~福島県までという見方が有力です。
邪馬台国論争の二大拠点である九州と畿内では、部分日食こそあれど皆既日食の観測はできなかった可能性が高いのが事実。
よって、皆既日食がどこまで卑弥呼の死に影響しているかは不明です。
卑弥呼の墓
卑弥呼は直径100歩あまりの大きな塚を墓とし、殉葬者が100人ほどいた、とされています。
卑彌呼以死、大作冢。径百余歩。殉葬者百余人。
『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条
なお、この塚が古墳だったとは限りません。
というのも、2024年現在、日本の主要な古墳からは殉葬の痕跡が発見されていません。
つまり、殉葬者がいたということは大きな古墳ではない可能性があります。
ただしこれは、大きい古墳ほど発掘調査が進んでいない(調査制限などがある)だけで、調べれば痕跡が見つかる可能性は十分にあり得ます。
形

「径」という表現から円墳であると考えられていますが、弥生時代の築造的には楕円墳や方墳の可能性もあり得ます。
前方後円墳とする説もあるものの、なぜ円墳部分の大きさだけ記述したのか、あるいは前方後円墳全体の大きさを径という字で表したのか、という点は説明が必要です。
大きさ
「百余歩」の余歩がどの程度かで細かい大きさが変わりますが、大きく3種類の説に分かれます。
説 | 一歩 | 墓の径 |
---|---|---|
短里説 | 0.3m | 30~40m前後 |
歩幅説 | 0.6m | 60~80m前後 |
長里説 | 1.4m | 140~160m前後 |
- 短里説
-
倭韓地方を中心とした独自の計測方法であるとする説。
- 歩幅説
-
実際に100歩程度を歩いてみた大きさと考える説。
成人男性の歩幅が60~70cmであることから、墓の径は100歩程度を歩いた60~80mほどになります。似たような説として、足の大きさ100歩分とする説もあります。
しかし、これでは足の大きさを25cmとすると墓の径は25mになってしまいます。
100人の殉葬者がいたことを踏まえると、25mでは小さすぎる気がします。 - 長里説
-
1歩 = 6尺とする尺貫法という考え方。
どの時代の長さ基準を用いるかは議論の余地があるが、概ね一歩を1.4m前後で仮定する。時代 周~前漢 新・後漢 魏 隋 唐 分(cm) – 0.2304 0.2412 0.2951 0.311 寸(cm) 2.25 2.304 2.412 2.951 3.11 尺(cm) 22.5 23.04 24.12 29.51 31.1 丈(m) 2.25 2.304 2.412 2.951 3.11 歩(m) 1.35 6尺
1.38246尺
1.44726尺
1.77065尺
1.555里(m) 405 300歩
414.72300歩
434.16300歩
531.18360歩
559.8角川漢和中辞典 より
墓は1つではない?
「大作冢」は大きな塚ではなく多数の塚の意味と解釈する説があります。
「徑百余歩徇葬者奴婢百余人」は径百余歩の範囲に殉葬者や奴婢百余人分の塚があるという考えです。
この考えでは、「卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩 徇葬者奴婢百余人」は卑弥呼の死をもって多数の殉葬者が発生し、径100歩ほどの場所に殉葬者たちの塚が作られたと解釈します。
福岡県久留米市の祇園山古墳(3世紀中頃築造?)では、周囲に数十名分の集団墓が見つかっています。
こうした形で、古墳に直接殉葬者が埋葬されているわけではなく、古墳の周囲に小さく墓が作られている可能性もあります。
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