夏王朝の第6代帝である少康には、入れ墨に関するエピソードがあります。
そこから、古代中国の入れ墨文化を考察してみます。
古代中国の入れ墨文化は、「倭人は太伯の末裔」という説にも関連してくる情報です。
夏王朝とは?
夏王朝は、紀元前2070年頃~紀元前1600年頃に中国で栄えたとされる、史書に記された最古の王朝です。
伝説的な王朝であり、文字史料が見つかっていないことから現状実在は認められていません。
しかし、二里頭遺跡を中心に実在を示す証拠となりそうな遺跡は発見されており、研究が進められています。
夏王朝の少康と無余
古代中国の入れ墨文化には、夏王朝の第6代帝・少康とその子・無余が関係します。
禹以下六世而得帝少康
『呉越春秋』越王無余外伝 第6
少康恐禹祭之絶祀 乃封其庶子於越 號曰無余
夏王朝の創始者である禹(う)の墓が会稽にあり、この祭祀のために夏王朝の第6代帝の少康は子の無余を会稽に封じました。
”会稽”は、越国の領域内にある会稽山のことでどの学者もほぼ一致した意見となっています。
また”封じる”とは一般的に、土地を与えてその地の王に任命することと解釈されます。
越王勾践
其先禹之苗裔 而夏后帝少康之庶子也
封於會稽 以奉守禹之祀 文身斷發 披草萊而邑焉孫守真按:華夏蓄髮 身體髮膚…… 故以為異也 今俗均斷髮矣
『史記』越王勾践世家 第111
『史記』によれば、無余は入れ墨と断髪をして、会稽の荒れ地を開拓して国を興したとされています。
さらにその無余は、越の第3代王である勾践の祖先であるとしています。
蛟竜(蛟龍)の害

中国では蛟竜(蛟龍)という龍の幼生が伝説の生き物として語られています。
蛟竜は”いずれドラゴンのような飛べる姿に変わる”という記述が『述異記』にあり、「水にすむ虺は五百年で蛟となり、蛟は千年で龍となり、龍は五百年で角龍、千年で應龍となる」と記されているようです。
「蛟龍は水居」し(『淮南子』原道訓))、「蛟龍は水を得てこそ」神の力を顕現させ(『管子』形勢篇)、すなわち「蛟龍は水蟲の神」である(『管子』形勢解)とされていて、水を住処としているようです。
「池の魚数が3600匹に増えると、蛟が龍(ボス)となり、子分の魚たちを連れて飛び去ってしまう(『説文解字』)」という伝説も残っています。
其君禹後帝少康之庶子云封於會稽文身斷髮以避蛟龍之害
『漢書』巻28『地理志』「粤地」
『漢書』によれば、少康の子が文身断髪した理由は蛟竜の害を避けるためとされています。

倭人は太伯の末裔説
古代中国で入れ墨した理由は、蛟竜の害(魚がいなくなる被害)を避けるため、と言われています。
倭人には文身断髪の風習があるとされていて、これが中国・呉国の文化と共通しています。
よって倭人と呉には文化的交流や人々の移動があった可能性を示唆しているという考えがあります。
ここから、呉国を建国した太伯の末裔が倭人であるという説が「倭人は太伯の末裔説」です。
呉国のあった場所
越国のあった場所
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