三国史記(新羅本紀) 原文全文【解説なし】

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本記事では、三国史記(新羅本紀)の倭や邪馬台国に言及した部分の原文全文を掲載しています。現代語訳や解説は含まれていません。文意の理解には別記事の解説編もご参照ください。

こちらの記事では、史料『三国史記(新羅本紀)』の倭や邪馬台国に言及した部分の原文のみを掲載しています。
解釈や補足説明を含まない構成となっており、原典の言葉に直接向き合うための資料としてご活用いただけます。
※文意の解説・現代語訳・学説比較については別記事にまとめております。

史料の原文は、句読点や段落などがなく、漢字の連続体で記されています。
本ページでは可読性を考慮し、一般的な解釈に基づいて適宜改行・区切りを加えています。
区切る場所が間違っている可能性は十分考えられます。

目次

『三国史記』の倭に関する記述

ポイント

『三国史記』によれば、新羅の始祖・赫居世居西干は「前漢孝宣帝五鳳元年(紀元前57年)」に即位したと記述されています。
阿達羅尼師今の在位期間は、そこから数えた場合154~184年になります。
しかし『三国史記』の信憑性は怪しいため、即位年や在位期間自体が間違っている可能性も大いにあり得ます。

新羅本紀 第2 阿達羅尼師今

阿達羅尼師今(あだつらにしきん)は新羅の第8代の王(在位:154~184年)。

五年、春三月、開竹嶺。倭人來聘。
(…中略…)
二十年、夏五月、倭女王卑彌乎遣使來聘。

王の在位期間西暦事象
元年(一年)154年王に即位
五年158年倭人來聘
二十年173年倭女王卑彌乎遣使來聘
即位年が一年に相当、以下同様

新羅本紀 第2 伐休尼師今

伐休尼師今(ばっきゅうにしきん)は新羅の第9代の王(在位:184~196年)。

十年、
春正月甲寅朔、日有食之。
三月、漢祇部女、一産四男一女。
六月、倭人大饑、來求食者千餘人。

新羅本紀 第2 奈解尼師今

伐休尼師今(なかいにしきん)は新羅の第10代の王(在位:196~230年)。

十三年、
春二月、西巡郡邑、浹旬而返。
夏四月、倭人犯境。遣伊伐飡利音、將兵拒之。

新羅本紀 第2 助賁尼師今

助賁尼師今(じょふんにしきん)は新羅の第11代の王(在位:230~247年)。

三年、夏四月、倭人猝至圍金城。王親出戰、賊潰走、遣輕騎追擊之、殺獲一千餘級。

四年、夏四月、大風飛屋瓦。五月、倭兵寇東邊。秋七月、伊飡于老與倭人戰沙道、乘風縱火焚舟、賊赴水死盡。

新羅本紀 第2 沾解尼師今

沾解尼師今(てんかいにしきん)は新羅の第12代の王(在位:247~261年)。

三年、夏四月、倭人殺舒弗邯于老。

13代の味鄒尼師今の条には、倭に関する記述がありません。

新羅本紀 第2 儒禮尼師今

儒禮尼師今(じゅれいにしきん)は新羅の第14代の王(在位:284~297年)。

四年、夏四月、倭人襲一禮部縱火燒之、虜人一千而去。

六年、夏五月、聞倭兵至、理舟楫、繕甲兵。

九年、夏六月、倭兵攻陷沙道城、命一吉飡大谷、領兵救完之。

十一年、夏、倭兵來攻長峯城、不克。

十二年春、王謂臣下曰:「倭人屢犯我城邑、百姓不得安居。吾欲與百濟謀、一時浮海、入擊其國、如何?」舒弗邯弘權對曰:「吾人不習水戰。冒險遠征、恐有不測之危。況百濟多詐、常有呑噬我國之心。亦恐難與同謀。」王曰:「善。」

新羅本紀 第2 基臨尼師今

基臨尼師今(きりんにしきん)は新羅の第15代の王(在位:298~310年)。

三年、春正月、與倭國交聘。

新羅本紀 第2 訖解尼師今

訖解尼師今(きっかいにしきん)は新羅の第16代の王(在位:310~356年)。

三年、春三月、倭國王遣使、爲子求婚、以阿飡急利女送之。

出典

原文を見る@维基文库
2025.01.14 閲覧確認

本記事では、三国史記(新羅本紀)の倭や邪馬台国に言及した部分の原文全文を掲載しています。現代語訳や解説は含まれていません。文意の理解には別記事の解説編もご参照ください。

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