古代中国王朝は、中国を中心とした東西南北の四方に居住していた異民族に対し、蔑称を付けていました。
しかし、東の国々に対しては、西南北の国より少し格上に見ていたと取れる記述が『漢書』にあります。
古代中国王朝の思想

古代中国王朝は、中国を中心とした東西南北の四方に居住していた異民族に対し、それぞれ「東夷(とうい)」「 西戎(せいじゅう)」「南蛮(なんばん)」「北狄(ほくてき)」という蔑称を付けていました。
朝貢する国に対しては対等に近い形で外交・貿易関係を結ぶ一方で、それ以外の国を四夷や夷狄と呼んで敵対したり不平等な扱いをしていたようです。
そんな中、『漢書』の地理志には、東国は他方より優位であるような補足記事があります。
『漢書』から見る東国の優位性
『漢書』の地理志によれば「東夷の天性は柔順であり、そこが他の三方(北狄・南蛮・西戎)とは異なる」ようです。
その理由は、箕氏が朝鮮の民を指導したからだとしています。
玄菟楽浪 武帝時置 皆朝鮮 濊貉 句麗蛮夷
『漢書』巻28 地理志 燕地条
殷道衰 箕氏去之朝鮮 教其民以礼儀 田蠶織作
可貴哉 仁賢之化也
然東夷天性柔順 異於三方之外
故孔子悼道不行 設浮於海 欲居九夷 有以也夫
楽浪郡は武帝の時に置かれた蛮夷である。
殷国の政道が衰え、箕氏は朝鮮へ行き、現地民に礼儀などを教えた。
「仁賢の化」は貴ぶべきであるなぁ。
そのため東夷は中国に柔順で、そこが北狄・南蛮・西戎とは異なる。
孔子が道徳的でない政治を遺憾に思って、九夷(東方の多くの夷)に行こうと言った理由だろうか。
箕子朝鮮
箕子(きし)とは、中国・殷王朝の政治家で、朝鮮で箕子朝鮮を建国した人物です。
生没年は不明ですが、箕子朝鮮の初代王として在位したのは紀元前1126~1082年頃とされています。

武王既克殷 訪問箕子 於是武王乃封箕子於朝鮮
『史記』巻38 宋微子世家第8
武王は殷を征服した後、箕子を訪問し、その後武王は箕子を朝鮮に封じた。
殷を倒して周を建国した武王が、殷で有能だった箕子を朝鮮に封じたようです。
ただし左遷のようなことではなく、箕氏は”朝鮮半島の政治を任された”とする考えが主流です。
殷の遺民を率いて朝鮮にやってきた箕子は、犯禁八条など朝鮮人の教化策を実施し、理想的な社会を作ったとされています。
ここまでを踏まえ、漢書地理志の上記の文は以下のことを言いたいものと推測されます。
- 三方(北狄・南蛮・西戎)とは異なり東夷はやや格上である
- 東夷(楽浪郡支配下の豪族)は箕子朝鮮がルーツであるからだ
孔子を引用した理由
孔子の話をまとめた『論語』に以下のような記述があります。
「子曰、道不行、乘桴浮于海。」
『論語』公冶長第五の七
孔子が話された
「天下は(秩序が乱れて)道徳的ではなく(私の理想に程遠いので)、いっそ筏に乗って海外に行こうか。」
これは、「現世を嘆いて逃避する」という意味の乘桴浮海(じょうふふかい)という四字熟語の語源になった孔子の言葉です。
ここで孔子は、道徳的ではない中国世界を捨てて海外に逃げようか、と冗談めいたことを言っています。
漢書地理志で孔子の話を引用したのは、東の国の道徳性を補足したかったのだろうと思われます。
まとめ
少なくとも漢書地理志において中国は、北・南・西の国々に比べて東の国々を少しだけ格上に見ていたようです。
古代中国の文献を読む際に、意図的に”卑”や”馬”など印象の良くない字を充てているとする説もありますが、この一文が反論材料となっている場合があります。
(「道徳的な東の国々に対して悪い字は充てないだろう、単純に当て字をしているだけ」という意見)
コメント